「夢を、諦めない挑戦を」:高田賢三から受け継ぐ、未来へのメッセージ - ファッションの民主化を成し遂げた男
2024年2月17日、姫路にて「髙田賢三さんを偲び、TSUTSUさんを囲む会」が開催された。これは世界的なファッションデザイナーである髙田賢三の出生地、姫路において、氏の功績と精神を次世代に伝えるために企画されたトークイベントだ。 登壇したのは、髙田賢三と共にパリで44年間仕事をしてきた元KENZOのクリエイティブディレクター、佐々木勉(愛称:TSUTSU)。聞き手は、atelier KEISUZUKI代表の鈴木圭が務めた。 鈴木とTSUTSU氏は2024年9月、KEISUZUKIがパリで展示会を開催する際に、企画段階から海外進出におけるアドバイスを受ける中で親交を深めた。
あるとき、TSUTSU氏が鈴木に漏らした言葉がある。「日本からパリに進出して活躍するデザイナーは、さかのぼればイッセイミヤケ、コムデギャルソン、ヨウジヤマモトと、そうそうたる顔ぶれが連なるが、この文脈において先陣を切ってパリに挑み、後進のためにレールを敷いたのは、KENZOだった。そのことを忘れて欲しくない。」 TSUTSU氏は、日本ではまだKENZOが十分に評価されていないと感じている。この対談イベントは、髙田賢三の功績と精神を次世代に語り継ぎ、TSUTSU氏の言葉を通して、その真髄に迫ることを目指した。
髙田賢三、パリに革命を起こした男
1978年、文化服装学院の装苑賞公開審査会でKENZOと出会ったTSUTSU氏。当時、すでにKENZOはパリで絶大な人気を誇っていた。「70年代後半、デザイナーとしてのKENZOの人気は、イヴ・サンローランと'' 同格 ''もしくは'' 人気を二分していた。」その熱狂ぶりは、フランスのファッション業界全体を活気づけた。パリコレのシーズン期間には、世界中からバイヤーやジャーナリストが集まる。「当時のKENZOのパリコレのショーは、ジャーナリストですら満席で入れず、入り口には必ずガードマンのような人がいましたが、しょっちゅう入り口では喧嘩が起きていた。」 やがて功績はパリ市からも称えられ、最初にブティックを開いた建物には記念プレートが贈らることになる。
「結局フランスのファッション産業ですから、ジャーナリストやいろんな人がパリコレに来るんですね。パリコレはだいたい7日間続くのですが、最終日のデザイナーがよっぽどの力があって人気がなければ、ジャーナリストたちは途中で自分たちの国に帰ってしまうんです。いかに最終日の20時まで、海外から来た人たちをキープできるか。それくらいの力のあるデザイナーが必要だったんですよね。」
80年代に入ると、それまでイヴ・サンローランが独占していたパリコレ最終日の20時のトリを、KENZOが務めるようになった。 「海外から来た人たちはホテルに泊まり、最終日までホテルにいて、食事もするし、街で簡単なショッピングもする。要するにパリの街全体がKENZOのショーの人気のお陰で潤うわけです。」 贈られた記念プレートは、パリの産業にKENZOが貢献した証であった。
若き日の(左)髙田賢三,(右)TSUTSU氏
パリのパーティーの常識を覆す
KENZOが創ったのは新しい価値観だった。当時のフランスのファッション環境は、オートクチュールという狭い限られた階層の顧客向けの、ある規範に縛られ固定化したものだった。KENZOは、自由に多くの人が楽しめるものへとファッションを解放した。ファッションショーという形でのプレゼンテーションも、KENZOが初めて行ったと言われている。そのための装置としてビジネスも変えていった。そしてフランスでファッション産業が成長した。
TSUTSU氏が覚えているKENZOの言葉がある。「なぜこんなことを言ったのか分かりませんが、『女性が一人でメトロに乗れるような服』をKENZOは目指していたんです。」 当時のパリでは、パーティーにはフォーマルな装いで参加するのが一般的だった。
しかし、KENZOはフォークロア調の普段着のような服を提案し、パーティーの場に持ち込んだ。「普通ならパーティーに行くとなったら、パーティー用の装いをするでしょう。それをぶっ壊す。『このパーティーになんでこの格好で来たの?』っていう。それがまたレボリューションだったと思います。そうやって、どんどんパリの、フランスの習慣をぶっ壊していったんですよ。そのぶっ壊し方が、うまくフランス人に受け入れられたんです。」
KENZOの服には、花柄をシンボルに、カラフルでフェミニンさがあり、健康的で爽やかなイメージがある。それが、置かれた時代、置かれた場所次第によっては、革命的になり、それまでの常識を打ち破るほどの威力をもたらす。
KENZOの服は80年代のパリにおいてまさに革命であった。「それが、なぜか、受け入れられたところに凄さがある。」とTSUTSU氏は振り返る。どこか不良っぽくて、暴力的であることが革命を起こすとは限らないのだ。 KENZOのデザインは、常に人々の予想を裏切り、そして期待に応えた。
高田賢三の精神、夢と挑戦と諦めない心
高田賢三は「夢」を体現する人だった。「まず賢三は夢を持ち、夢を叶えるように努力し、そして、夢を叶えるまで最後まで諦めない人でした。」 穏やかな外見からは想像もできない、強い意志と諦めない精神。数多くのエピソードがそれを物語っている。 ショーでモデルの服の着方が気に入らず、舞台袖から呼び戻して着替えさせたこと。飛行機の出発に間に合わないと見るや、滑走路に向かって「乗せろ」と叫んだことなど、枚挙にいとまがない。「本当に困ったくらい、諦めない人だった」とTSUTSU氏は苦笑しながら語る。「夢にはオブラートのようなものがあるんですよ。自分自身に強い気持ちや精神があるんだと思いますが、対面する相手にはオブラートに包まれたソフトなものしか見えてこない。それがすごいことだと思います。」
KENZOの皆から愛される人柄、挑戦し続ける心、諦めない気持ちは、ファッション業界だけでなくどの分野においても大切な要素であり、私たちの生き方そのものに光を当てます。「夢を持つこと」「挑戦すること」「諦めないこと」。TSUTSU氏が語るこれらの言葉は、私たちに勇気を与え、未来を切り開く力を与えてくれます。「予想を裏切り、期待に応える」。この言葉は、私たちに固定概念にとらわれず、常に新しい可能性を追求することの大切さを教えてくれます。パリで成功するための秘訣は、「当たり前をぶち壊す気概」だとTSUTSU氏は言います。「ビジュアルは違えど、高田賢三もヨウジ・ヤマモトさんやコム・デ・ギャルソンも、精神は同じ。その時代、その時代をぶっ壊していったんです。」それは、私たちに勇気を与え、未来を切り開く力を与えてくれます。KENZOの精神は、私たちに「明日を生きるための羅針盤」となるでしょう。